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蟻

御創建と御鎮座地-田辺の地主神-

和歌山県田辺市の中心市街地に鎮座する当宮の御祭神は、古来この地域の「地主神」としても知られています。江戸前期、元禄7年(1694)の書上に「縁起旧記無御座候故勧請之時代知不申候、自往古湊村地主神之由申伝、森之内に社御座候」とあり、文化3年(1806)に紀州藩が編纂した著名な地誌『紀伊続風土記』には、「蟻通明神社」として「境内周五十間 村の西二町にあり湊村の地主神といふ」と記されております。書上にみる如く、古社のため御創建の年代は定かではありませんが、はるか神代の昔からこの地の守り神であったと伝えられています(第1代神武天皇御東征のころ、すでに御鎮座との伝承あり)。なお、明治前期に全国の神社を管理するための台帳として作成された「神社明細帳」に、当宮の御創建が天平神護元年(765)と記載されていますが、この年号は明細帳作成時に考案されたものと考えられます。
社名については、中世は「蟻通明神(ありとおしみょうじん)」、近世に入ると「御霊牛頭天王社(ごりょうごずてんのうしゃ)」ともよばれていました。天明3年(1783)、紀州藩第9代藩主の徳川治貞公が当宮ご参詣の折には、当宮を「蟻通宮(ありとおしのみや)、よき宮」と称えられ、金千疋を奉納されたと伝わります。
また、江戸時代初期までは、会津川の河口左岸一帯全域(湊村)が当宮の産土地域でした。慶長11年(1606)に湊村城(後の田辺城)が築かれ、城下町が形成されていくとともに湊村と神社の境内地は縮小していきましたが、今日においても御祭神が田辺中心市街地の「地主神」であることに変わりはありません。往時の神社境内地は、現在の海蔵寺、本正寺、北新町の南側におよび、本正寺付近に鳥居や神門があったという古記録が残されています。

「江戸時代初期の産土地域」

「江戸時代初期の産土地域」

「現在の蟻通神社周辺地図」

「現在の蟻通神社周辺地図」

現在の氏子地域

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